登大遊氏の「鉄球と磁石」の考察2。鉄球と磁石を頭に置くと、何かを考え、行っているときに、”余計なもの””不必要な事柄”に意識を向けなくすることができるようだ。

一つ前のエントリーで、
鉄球と磁石を頭に置かないときには
脳の働きを常にモニターしていなければならなかったと
書いたが、
常にモニターしているということは
いまやっている、考えていることの目的には不必要な事柄について、
その事柄が不必要かどうかを判断するために、
一旦はその事柄に脳の意識を向ける、フォーカスする必要があるが、


鉄球と磁石を脳に置いていると
不必要かどうかの判断がなくても
なぜか?ひとりでに
必要な事柄だけにフォーカスできるようになっている
ような気がする。
必要なものだけに意識を向けることができているようで、
とても効率がよい感覚を持つことができるため
自分自身の意識が余裕を持てている感じがして、
それが安心感につながっているような気がする。


必要か不必要かが自動的に判断されている感覚だ。


これが、登大遊氏が言う、
「論理的に考えるな、感覚的に考えろ」
ということなのだろうか?


脳が持つ”本来の性能”を発揮している状態なのだろうか?


ただ、いまの私では
鉄球と磁石を置くこと自体を
まだかなりのパワーで行わないと
置き続けられない、いわば”初心者”であるためか、
脳自体がすぐ疲労してしまう状態である。
すぐ、すごく疲れてしまう感覚。脳が。


鉄球と磁石を置くこと自体が自然にできるような
”上級者”になれば、
思考、行動があたかもひとりでに正しく進んでいくような感覚を
持つことができるということか?