いろいろな方向の”幸せ”

私の前回の日記でふれさせていただきましたArisanさんと
祭りの戦士さんからコメント、TBをちょうだいいたしまして
まことにありがとうございました。


前回の日記で
幸せはあらゆる方向にある。と書いて、


では、幸せの基準がひとつしかないように見える今の世の中で
結果としてその基準で言うところの”幸せ”が
いまは手に入っていなくて、あきらめ、しらけてしまっている
人はどうすればよいのかを考えていた。


まず、出発点としては
幸せの基準はひとつではなく無限にあることを
自分で納得できないとだめ。
それこそ、あきらめるしかなくなっちゃう。
がんばる人はその一つの基準の中で挽回しようとする人も
中にはいるだろうけど。


だけど、抽象的すぎる。


いつも拝見している板倉雄一郎氏のブログ
http://www.yuichiro-itakura.com/
で、板倉氏がお使いになられている言葉で
「自分が出来る社会への価値提供を追求すること」
というのがヒントになりそう。


板倉氏の言葉を私なりに解釈すると
誰かに喜んでもらえることをする。というふうになるのだが
人は、どんなことでも、それが誰かに喜んでもらえている
ということが実感できるとうれしいと思う。


だから、世の中のひとりひとりそれぞれに
「誰かに喜んでもらえることをやれる”場”」がある
ようにすることができれば、
その”場”でその人その人が日々生きることができそう。


これでもまだまだ現実的でなく、それでいくばくかの稼ぎが
なければ食べていけない。とかの問題はあるのだが
誰かに喜んでもらって、
そのことがお金にならないということと
幸せかどうかということとは
無関係ではないけれど絶対条件ではない気がする。


商売とか事業なども「誰かに喜んでもらい、その結果で
金銭を得る」ことだから、うまくいけば幸せであることは
まちがいないのだけれど、親とか学校とかが子供たちに
言うことが
「いい生活をするために」イコール「人より先に人より多く
お金や食べ物を獲得するために」ということばかりだとしたら
自分の喜びとは別のところで競争しなくちゃならないかも
しれない。


人に喜んでもらえることをしようね。
人が喜んでくれると自分もうれしい、楽しいよ。


幸せはここから始まるのか。


でも・・・・・
食べるためにお金は必要だし、
お金を得るためには、お金を払ってくれることを
しなければならないのは当たり前だし、


人が喜んでくれることと、お金を払ってくれることは
イコールではないんだよなあ・・・・・


お金があれば、ラクで安定した生活ができるから
お金が最優先目標になっちゃうのは仕方ないんだよなあ。


でも、”いま”は結果としてお金を獲得できていない人でも
あきらめなくてもすむような気持ちになれる世の中だったら
その人が持っている能力、チカラが無駄にならなくて
すむんだけど。


”いま”お金がない人ほど、日々の生活に追われなくては
ならないから、考える時間を持てない。
そうやって、お金を持っている人と持っていない人との差は
どんどん開いていく。


お金を持っている人には経験ができなくて、お金を持って
いない人しか経験できないようなことがもしあったとして、
それが誰かが喜んでくれることに結びついて
結果としてお金を得ることができる
なんていうことが何かあればいいのかな?


お金がないことがアドバンテージであるというような何かが。