「あきらめる」ということは何なのか。

いま、ふと、
「あきらめる」という言葉が頭に浮かび、
人が生きることと、あきらめるということとの関係に考えが及んだ。

欲望がかなわないから「あきらめなければ」ならない。
これは仕方のないことである。
あきらめた後にどういう気持ちを持つか
ということが大事なのだろうか。


「あきらめる」ことはいやなこと、残念なことである。
欲望が満たされないことだから。
でも、あきらめなければならないことはたくさん、しょっちゅうある。
あきらめたことを自分の中で消化しなければならない、
折り合いをつけなければならない。


「あきらめたこと」が
自分の一つの経験となる。
次の欲望を持ったとき、「以前あきらめた経験」が思い出される。
意識的にか、無意識的にかはあるが。
欲望の達成に向かう途中のどこかの時点で
以前にあきらめた経験がじゃまをすることがあるかもしれない。
もしそうなってしまうと、
欲望の達成だけに集中することが難しくなってしまい、
欲望の達成がより困難になってしまう。


「あきらめた経験」にじゃまさせないためには
「あきらめた経験」に勝たなければならない。克服しなければならない。


「あきらめた経験」は
経験として自分の中にたまっていくのは仕方がない。
その経験が
別の欲望の達成をじゃますることが問題だ。


欲望の達成だけに集中する。
それが大事?